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同和問題

同和問題とは何か

 1965(昭和40)年の同和対策審議会答申によると、同和問題とは「日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である」と定義されています。この答申から40年以上が経過しましたが、今なお差別は解消されていません。ここでは、この同和問題について考えてみましょう。

1 同和問題の時代背景

@ 被差別身分と被差別部落 中世−近世の歴史

 被差別身分がどのようにしてできたかについては、さまざまな説があります。江戸幕府が民衆の武士階級への不平不満をそらすために作り上げたとする説(「近世政治起源説」)や、中世に流布したケガレ意識に基づくとする説などがあり、はっきりとした結論は出ていません。しかし、江戸時代以前から賤視されていた人々がおり、それらの人々が、江戸時代前後から制度的に身分を固定されていったのは事実であると言えます。ケガレ意識に基づく世俗的差別に、近世以降の政治的差別が加わった二重構造の差別が、人々の差別意識を助長していったと考えられています。

 被差別部落の成立時期や要因にもさまざまな説があり、また地域によっても異なりますので単純に決め付けることはできませんが、戦国時代に武具の需要が飛躍的に高まり、材料となる皮革の安定的な確保の必要性から、戦国大名たちが皮革製造に携わる被差別民を一定地域に集めて管理したことが、被差別部落成立要件の一つであるという説があります。安土桃山時代には、太閤検地によってこれらの集落が整理・固定化されていき、同時に安定的統治の必要から、身分の序列化と固定化がなされていったというものです。むろん、賤視の対象となったのは皮革製造に従事した人たちだけではなく、被差別部落の成立時期も地域に差があって一様ではありませんが、この時期が、被差別部落の成立と身分の固定化に重要な意味を持つといえるでしょう。この身分制度が江戸幕府に引き継がれ、強化されていったと考えられています。



 江戸時代に入ると、被差別身分の人々は、幕府や藩の管理の下で小規模農業、斃牛馬の処理、皮革関連の手工業、町や村の警備、犯罪人の逮捕や刑の執行などの役務に従事していました。

A 明治以後

 明治政府は、1871(明治4)年に太政官布告(解放令)を出して、被差別身分を廃止しました。具体的な差別是正措置はとられませんでしたが、これにより長く続いた身分制度が、制度上は姿を消すことになります。しかし、実際にはこれ以降も、被差別部落の人々への差別は続いていきます。以下は、明治から大正期にかけて本県で実際にあった事例です。

 明治初期、被差別部落出身の児童は、他の児童とは別の「部落学校」に通っていました。「部落学校」はのちに「分教場」などと名を変えて存続したところもありますが、1900(明治33)年の小学校令の改定では廃止され、尋常小学校に統一されました。しかし、その後も被差別部落出身児童だけのクラス編制がなされるなど、差別はなくなりませんでした。

 ある村の小学校でも、「分教場」の廃止後一部の学年で別クラス編制を続けていました。そのクラスは、「分教場」から引き続き被差別部落出身の教師二名が担任していましたが、1915(大正4)年、県知事が別クラス編制の廃止を指示したことにともない、この教師が被差別部落出身以外の児童の担任になることを知った児童の保護者たちのほとんどが、それを拒否して児童たちを休校させました。また他校に転校させる保護者も出てくるなど混乱をきたした結果、この教師二名は退職しています。

 また、別の小学校では、1913(大正2)年、被差別部落出身児童用の湯飲み茶碗を他の児童用と区別して使用させることにしたことから、被差別部落側の保護者から抗議の声が上がっています。このように、身分制度がなくなっても、差別意識は根強いものがありました。

B 被差別部落住民の取り組み

 明治維新に続いて起こった自由民権運動に刺激され、被差別部落を改善しようとする運動が、部落住民の間から自主的に起こってきました。1902(明治35)年6月、岡山県に「備作平民会」という運動団体が結成され、これが部落改善運動の先駆けといわれています。同年には大阪市で「大日本同胞融和会」が結成され、創立総会は全国規模の集会になりました。

 これらの運動の基本的な主張は、道徳の修養、殖産興業、教育の奨励、人材の養成などを積極的におこない、自主独立の基礎を固めたのちに社会に対して反省を促そうとするもので、内部改善主義というべきものでした。

C 解放運動と融和対策

 1904(明治37)年から1年あまりにわたった日露戦争の終結後、日本の財政は困窮し、物価騰貴のため国民の生活は苦しくなっていきました。その後第一次世界大戦による好景気で財政は好転しましたが、近代の社会経済活動から取り残されていた被差別部落の人々の多くは、生活に困窮したままでした。

 1918(大正7)年、米問屋の買占めなどによる米価の高騰のため生活難に陥った低所得者層が暴徒化し、騒ぎは全国に広がりました。これが「米騒動」といわれるものですが、一般大衆とともに多くの被差別部落の人々がこれに参加しました。貧困生活への不満に加え、多年にわたる差別への憤懣が爆発したと言われています。これをきっかけとして、差別問題が重大な社会問題として広く認識されるようになり、2年後の1920(大正9)年、国は地方改善費を予算計上して地区の環境改善や啓発に乗り出しました。

 一方、1919(大正8)年には帝国公道会が第1回同情融和大会を開催し、翌年第41回帝国議会に対し請願書を提出しました。さらに、1921(大正10)年には第2回同情融和大会を開き、第42回帝国議会に陳情を行っています。その内容は、被差別部落の人々を官公吏に採用したり、軍隊内での差別待遇や教育上の差別の撤廃、国に部落改善のための専門部局を設置することなどを中心としていました。要求そのものは明治・大正初期の改良主義運動と大差ないものでしたが、それまでの内部改善第一主義から行政施策の要求に変化した点に特徴が見られ、差別撤廃に重点を置く融和主義の方向へと転換したと言えます。この時期、いくつかの融和団体が組織され、融和運動は全国に広がっていきました。

D 全国水平社と融和運動

 融和運動に対抗し、改良主義の部落改善ではなく完全な解放をめざし、協調的な融和主義ではなく差別撤廃のため闘争する自主的団体として、1922(大正11)年全国水平社が創立されました。その創立大会において、差別的な言動に対して徹底的な糾弾を行うと決議し、それを実践したため、活動初期において一部反社会的な行動もありましたが、被差別部落の人々の基本的人権に関する自覚を高め、差別の不合理性についての社会的認識を普遍化する役割を果たしたことは評価されています。

 一方国は、1923(大正12)年内務大臣訓令を出して積極的に融和運動の奨励助成に努めました。その結果、全国に融和団体が組織され、さらにそれらを統合した全国的連合体として中央融和事業協会が作られました。中央融和事業協会は内務省の外郭団体として水平社の運動に対処することになります。水平社はその後、日中戦争の勃発にともなう社会運動の衰退により運動の転換を迫られ、国策に協力していく中で、1941(昭和16)年の同和奉公会の発足により翌年自然消滅していきます。融和運動もまた、次第に国家主義・軍国主義の傾向を強め、国民精神総動員運動の一翼と化して本来の目的と役割とを喪失していきました。

E 太平洋戦争後

 戦争終結後、連合軍の占領政策の方針として被差別部落への特別な行政施策がなされなかったため、国の同和対策は停滞し、被差別部落の人々の生活は甚だしく困窮し、差別問題も解決されないままでした。このような情勢の下、1946(昭和21)年「部落解放全国委員会」が結成され(1955(昭和30)年には「部落解放同盟」と改称)、国や地方公共団体に対し部落解放の行政施策を要求する大衆闘争を全国的に展開しました。1947(昭和22)年日本国憲法が制定され、すべて国民は個人として尊重され(第13条)、社会的身分や門地(出自)などによって差別されない(第14条)ことを明記しています。1960(昭和35)年には「全日本同和会」が結成され、これらの民間団体はそれぞれの立場から、同和対策の復活を要望し、同和問題の根本的な解決を国に要請していきました。

F 同和対策事業特別措置法制定〜現在

 1965(昭和40)年の同和対策審議会答申に基づいて、1969(昭和44)年に同和対策事業特別措置法が制定され、以後33年間にわたって、住宅や道路などの環境改善を中心に就労・教育・福祉などを総合的に推進した結果、生活環境については改善が進み、全体的には同和地区と周辺地域との較差は見られなくなりました。このような状況を踏まえ、国の特別対策は2002(平成14)年3月末に終了しています。

 特別措置法が失効し、同和対策は特別対策から一般対策へと移行しました。しかし、差別問題はまだ完全には解消していませんし、特別対策の終了が同和問題の早期解決への取り組みの放棄を意味するものでもありません。下の表は、平成12年に県がおこなった調査からのものですが、結婚や就職、その他さまざまな場面で差別を受けたことがあるとの回答が寄せられています。2000(平成12)年1月には、県内のある私立大学の学生に対し、賤称語を書いた手紙が約3年間に渡って送りつけられるなど、差別事件は今もなくなっていないのです。

 今後の同和行政には、差別意識の解消に向けた教育及び啓発の推進や、人権侵害による被害の救済等の対応の充実強化などが求められています。

 

被差別体験 (「平成12年度香川県同和地区実態把握調査報告書」より)

差 別 内 容

割合(%)

結   婚

27.5

就   職

13.2

学校生活

15.7

職場の付合い

15.7

日常の地域生活

20.7

そ の 他

7.0

不  明

0.3

 

2 「香川県部落差別事象の発生の防止に関する条例」について

 生活環境については改善が進みましたが、いまだにさまざまなところで差別が残っています。その最も顕著なものが、就職時と結婚時の差別です。

 県では、1996(平成8)年7月に「香川県部落差別事象の発生の防止に関する条例」を施行し、同和地区に居住していることや過去に居住していたことを理由として、採用時に不利な取り扱いをするなどの就職に際しての差別事象や、結婚に反対したり婚約を取り消したりといった結婚に際しての差別事象の発生の防止に努めています。

3 えせ同和行為

 「えせ同和行為」とは、「同和問題はこわい・避けたほうが良い」という誤った意識につけ込み、同和問題を口実にして高額図書等の購入を強要したりする行為です。「同和」や「人権」を冠した団体名を名乗ることが多いのですが、その実態はよくわかっていません。同和問題に詳しくない人がこのような被害を受けた場合、同和関係者に対する誤った認識を植え付けられかねません。「えせ同和行為」は差別を助長する行為です。必要がないと判断したときはきっぱりと断るようにしましょう。

※被害にあったときの対処法>>>

 

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