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あっぱれ香川【人物伝】宮武外骨
宮武外骨 高松短期大学教授 津森 明

奇想天外明治の源内さん反骨のジャーナリスト

 反権力、反骨、わいせつ研究家と多くの異名を持つ宮武外骨。その言動から、同じ香川県出身の江戸時代の鬼才・平賀源内と並び称され、”明治源内”といわれた。一貫して権力に筆誅(ひっちゅう)を加え政治、官僚の腐敗を追及した不世出の人物でもある。入獄四回、罰金四十数回、その科(とが)は発行停止・発刊禁止十四回というレコードホルダーである。

 外骨は、慶応三年一月十八日、阿野郡羽床村小野(現在の綾南町羽床下)の素封家に四男として出生した。翌年は明治という近代化の夜明け前であった。出来立てホヤホヤの滝宮小学校に入り、のちに高松の塾で漢学を身につける。向学心に燃え十八歳で上京。この青年期に新政府への出仕を拒否した反骨ジャーナリスト成島柳北に共鳴、活字(觚(こ))を操る新しい出版物に興味を示した。もちろん当時はメディアなどの言葉はなく操觚(そうこ)といわれた。彼自身も執筆だけでなく発行も手掛ける。二十歳ごろから「頓知(とんち)協会雑誌」とか「滑稽新聞」などを発行、権力に対抗した。特に官吏に対して強い筆先で追及。このために何回か発行停止にされたが代表的な筆禍は、明治二十二年三月三日に彼の発行した「頓知協会雑誌」二十八号で大日本帝国憲法を皮肉って「大日本頓知研法」としてパロディー化したことだった。

 「第一条、大頓知協会は讃岐平民の外骨之を統括す」と書き、玉座に立つ”骸骨(がいこつ)”が研法を下賜する図を入れた。 大日本帝国憲法は二月十一日に下賜された欽定(きんてい)憲法であり、外骨の紙面は不敬罪に当たるとして発刊停止、起訴され大審院でも重禁固三年、罰金百円と出た。

 この受刑はこたえたが石川島監獄で活版工場の囚人として労役につき、極秘裏になんと獄中新聞を発行、「鉄窓詞林(てっそうしりん)」とした。発覚後はもっぱら読書にいそしみ、二十六歳で出所。一時借金逃れに台湾に逃亡するなどしたが三十五年に大阪でかの有名な「滑稽新聞」を発行する。反政府、平等思想を前面に筆先はますますさえた。発行部数は大阪朝日や大阪毎日に迫るほどの勢いであった。

 官吏の汚職、賄賂(わいろ)授受を追及。「返還した」と主張する言い逃れなどを克明に追い、官吏侮辱罪、秩序壊乱、風俗壊乱などで再三、告発された。言論の圧迫に怒り心頭に達し、ついに百七十三号で自殺号として廃刊した。ただし七生報国(しちしょうほうこく)の気概で告発は続けると宣言、のちには「大阪滑稽新聞」を発刊している。

 「絵入広告新聞」「屁茶無茶(へちゃむちゃ)新聞」そして「不二(ふじ)」を出す。この新聞の客員には南方熊楠、花井卓蔵が名を連ね、文芸欄には折口信夫、田山花袋、谷崎潤一郎、武者小路実篤、森鴎外らが寄稿している。

 彼が生涯に執筆、出版したものは数えきれないほどで世の風潮を風刺、官吏の不正を追及、政治家や官吏の発表でない独自の取材で大方の喝采(かっさい)を受けた。このほかに「わいせつ風俗史」「筆禍史」「わいせつ研究会雑誌」など数多(あまた)の執筆、出版をした。

 東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫が創設されたのは外骨の発案。博報堂社長だった瀬木博尚の相談に応じ同社三十周年記念に生まれた。晩年はこの文庫で事務主任となって資料収集、研究に尽くし昭和三十年七月、八十九歳で他界した。


外骨の生家近くは、今も昔と変わらない風景が残っている。(香川県綾南町)

宮武 外骨
みやたけがいこつ
1867年(慶応3年)〜1955年(昭和30年)
ジャーナリスト。
宮武吉太郎の四男として生まれる。
幼名を亀四郎といい、亀は内肉外骨であることから、それをもじって筆名を「外骨(がいこつ)」とした。後年、この呼び名を「とぼね」と改めた。しかし、今日では一般的に「がいこつ」と呼ばれている。