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さぬき市造田にある是弘遺跡では、東讃統合高校建設に伴って、昨年度の11月から発掘調査を行っています。
8月に調査した調査地西端の7区では、弥生時代後期~古墳時代(約1800~1400年前)の河川の跡から、土器が多量に出土しました(写真1)。土器は河川の岸の部分に集中してみつかっており、当時の人々が河川の岸近くから、不要になった土器を投棄したことがうかがえます。周辺の調査区では、同時期の竪穴住居がいくつか発見されており、土器を投棄した人々は7区のごく近くに住んでいた可能性があります。
7区の調査では、弥生土器の甕や壺とともに、一風変わった土器もみつかりました(写真2)。筒のような形で、粘土の紐を貼り付けた突帯が2条巡り、円形の孔が4か所あります。古墳時代の埴輪に似た形をしていますが、出土したのは弥生時代の終わり頃の土層からと、時期に矛盾があります。この土器は一体どのようなものなのでしょうか。
これと似た形の土器を探してみると、兵庫県赤穂市周辺の遺跡から、同じ特徴を持つ土器が出土していることが分かりました。これらは大型装飾器台と呼ばれており、播磨地域(今の兵庫県南部)から備前地域(今の岡山県南東部)の東部において、弥生時代後期から終末期にかけて作られていたようです。墓の周辺の溝から出土していることから、祭祀に使用されたと考えられています。
是弘遺跡からは大型装飾器台のほかにも、岡山県南部で作られた弥生時代終末期の土器が出土しています。これらの遺物の出土は、是弘遺跡に住んでいた人々が、瀬戸内海を介して山陽地域と交流していたことを物語っています。
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| 7-2区流路土器出土状況 | 7-2区出土「謎の土器」 |
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