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公開日:2020年12月10日

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これまでの発掘調査

香川県埋蔵文化財センター

7次調査 ―昭和56年度―

7次調査発掘風景

7次調査の様子

須恵器皿
墨で文字が書かれた須恵器の図

倉庫跡が見つかった5次調査地点から北に約150m離れた水田を発掘調査しました。
国府そのものの遺構は確認されなかったものの、平安時代前半期の須恵器が見つかりました。
この須恵器には、底に墨で文字が書かれたものがあり、付近に文字を使用していた人の存在がうかがえます。

6次調査 ―昭和55年度―

地元説明会
地元説明会の様子

築地塀のような遺構
築地塀の土台のような遺構(中央の高まり部分)

讃岐国庁跡碑のすぐ北側の水田が調査地点です。
築地塀(ついじべい)の土台のような遺構が見つかりました。
この遺構の両側にある溝跡に埋まっていた土器や瓦から、この遺構は平安時代のものと考えられます。
国庁が塀などで囲まれている例もあることから、土台状の遺構は国庁を探す手がかりになります。
なお、溝跡から出土した瓦は、近くにある開法寺跡の瓦と似ていることから、開法寺跡との関連性を強く示唆するものです。

築地塀:国庁や寺院などの周囲に巡らされた土づくりの塀

5次調査 ―昭和54年度―

5次調査
5次調査の様子

倉庫と考えられている建物跡
倉庫と考えられる建物跡
(赤い点線で囲まれている部分)

国府印やく明神遺跡碑から南西方向の水田が調査地点です。
奈良時代か平安時代の建物跡と柵跡が見つかりました。
建物跡は東西8.4m、南北5.4mの規模で、柱を据える正方形の穴が碁盤の目のように配置されています。
荷重のかかる床をたくさんの柱で支え、床を上げて湿気を防ぐという構造が推測されることから、この建物跡は倉庫として利用されていたと考えられます。
もしかすると、国府に設けられていた倉庫かもしれません。
柵跡はこの場所を区画するためのものと考えられ、倉庫の廃絶後につくられています。

国府印やく明神遺跡碑:「インヤク」の地名が残る場所に建てられている碑。「印」は国の印、「やく」は国府の鍵を指すとされています。

2・3・4次調査 ―昭和53年度―

3次調査
3次調査の様子

4次調査
4次調査の様子

わん塚の石碑のある畑地(2次調査)、その南側の水田(3次調査)、さらに鼓岡神社北側の山裾で内裏泉(だいりせん)の横(4次調査)の3か所で調査を行いました。
4次調査で緑釉陶器(りょくゆうとうき)などの平安時代後半期の土器が出土しましたが、2・3・4次調査では古代の国府に関連した遺構は全く見つかりませんでした。
もともと国府に関係する施設が作られなかった場所なのか、後の時代に削られてなくなってしまったのか、それを判断する資料は得られませんでした。

わん塚:平安時代、讃岐国に流された崇徳上皇の碗が埋められたとされる場所。
内裏泉:崇徳上皇が使用したとされる井戸。
緑釉陶器:緑色の釉薬が塗られた高級な土器。

1次調査 ―昭和51・52年度―

1次調査地
1次調査地の様子

緑釉瓦片の出土
緑釉瓦片の出土(写真右手の緑色の破片)

讃岐国府跡の探索に向けた最初の発掘調査という記念的な調査です。
調査地点は国司庁碑のすぐ南東の水田です。
地表から約1m下に、多くの遺物を含む層のあることがわかりました。
この層からは、国府が機能していた時代(奈良~平安時代)の土器に加え、軒丸瓦(のきまるがわら)や緑釉瓦(りょくゆうがわら)が見つかりました。
当時、瓦を葺いていた建物は寺院や役所などに限られていたことから、軒丸瓦や緑釉瓦は、国府に関連した遺構の存在をうかがわせる遺物であると言えます。

軒丸瓦:軒先に使われる丸瓦
緑釉瓦:緑色の釉薬がかけられた高級な瓦

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