ため池について 主要ため池の紹介

満濃池・地域のあらましと歴史

本地域は、香川県の中西部に位置し、「さぬきのこんぴらさん」と全国的に親しまれている金刀比羅宮、弘法大師御生誕地の真言宗総本山善通寺などの観光地が近くにあります。下流部には、金倉川を中心に丸亀平野が広がっており、ここでは、弥生時代前期から稲作農耕文化が発展してきましたが、人口が増えるに伴い、新たな農地の開発が行われ、その用水源として、1300年前の大宝年間(701~704年)に、讃岐の国守・道守朝臣(みちもりあそん)により金倉川の上流部を堰きとめて、満濃池が築造されました。

その後、空海の修築から数百年経ち、再三の決壊や堤防老朽化でほとんど水がめの役割を果たしておらず、元暦元年(1184年)以来約450年間堤防が決壊したままになっていたた満濃池を、西嶋八兵衛により、再築され、江戸時代を通して重要なため池として守られてきました。

この他にも記録に残っているだけで5回以上も決壊しており、空海西嶋八兵衛など、当時の日本有数の土木技術者の手により修築が行われてきました。

一方では地域の発展に伴う農業用水の確保のために堤防の嵩上げ工事も行われ、現在では、日本一の農業用ため池となりました。

樋門・底樋管

当時の底樋は木製であったため、定期的な底樋管の交換を行う必要があり、受益者はその費用や出役が多大な重荷となっていました。そこで、嘉永2年(1849年)、榎井村(現在の琴平町)の庄屋、長谷川喜平次の提案により、嘉永5年(1852年)に石樋に改修されました。
しかし、安政元年(1854年)の大地震により、石樋継ぎ手部から漏水が発生し、堤防決壊の原因となりました。決壊後、幕末ということもあり、修築されないままであった満濃池ですが、明治2年(1869年)、高松藩執政松崎渋右衛門の発議により堤防の西側の岩盤を穿ち底樋とすれば永久的な施設になると考えて、弥勒石穴(みろくせっけつ)建設で信望を得た軒原庄蔵(のきはらしょうぞう)が、石の樋管に代えて隧道を築き、明治3年(1870年)に再築されました。その後の嵩上げ工事により堤防西隅の大岩を掘り抜き、現在の底樋隧道に至っています。樋門は、坑口周りに五角形の迫石(せまりいし)を用い、石造のコーニス、袖壁、柱頭付端柱で坑門を飾っています。樋門及び底樋管は平成12年(2000年)に国の登録有形文化財に指定されました。

昭和の改築工事

満濃池は、明治3年再築後、更に、第1次、第2次の嵩上げ工事を経て、昭和15年満濃池の第3次の嵩上を中核とする県営事業に着工しました。

この事業により、満濃池堤防を6メートル高く築造し、貯水量は2倍に増加しました。そのため、自己流域だけでは満水しないため、土器川から新たな取水を行うために天川導水路を新設し、更に各受益地に配水するための用水路の整備も併せて行いました。

事業の概要
受益面積 3,003ヘクタール
集水面積 直接流域面積 1,280ヘクタール、間接流域面積 8,610ヘクタール
実施期間 昭和15~昭和44年
型式 土堰堤拱型
貯水量 15,400千立法メートル
主な整備内容
余水吐工 1ヶ所(計画放水量Q=110立法メートル毎秒)
取水工 1ヶ所(取水塔H=30メートル,内径=5メートル,隧道L=197メートル,Q=4立法メートル毎秒)
堤体嵩上げ H=6メートル
天川頭首工 1ヶ所(土器川コンクリート堰H=2.7メートル,L=25メートル)
天川導水路 L=4,668メートル(Q=8.0立方メートル毎秒)
金倉川左岸幹線水路 L=6,986メートル(Q=2.0立方メートル毎秒)

環境整備

平成9年(1997年)から平成10年(1999年)には、満濃池の取水バルブ操作の遠隔集中管理装置を設置し、管理労力の軽減を図るとともに、満濃池分水樋門周辺の環境整備を行い、美しい自然とため池に親しむ場所を確保し、都市住民と地域住民との交流の場とするため、県営ふるさと水と土ふれあい事業を実施しました。

歴史的遺産であるとともに、土地改良施設である満濃池の機能を適正に保ち、地域の人々の交流と憩いの場として利用するため、満濃池への理解を一層深めるため修景施設、維持管理施設などを整備し、美しい自然とため池に親しむ場所を確保し、自然観察、散策、日曜市など都市住民と地域住民との交流の場を創設しました。

満濃池は、約3,000ヘクタールをかんがいする巨大なため池で、年中行事となっている「ゆる抜き」は、丸亀平野の田植えシーズンの本番を迎えるとともに、環境省の「日本の音風景百選」に選定されております。毎秒5m3を放水すると、底樋管出口には水煙りを上げ、ごう音とともに水が吐き出されます。

この行事には受益者のほか県内外から多勢の見物人が来ています。今まではこの放水ショーを下流遠くから眺めていましたが、堤防下流に木製の橋が架けられ、人々は間近で見物できるようになりました。また、休憩所は堤防上で開かれる日曜市の憩いの場を提供しています。

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