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公開日:2020年12月10日

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所蔵資料紹介

蛙子池堤防切所絵図

蛙子池堤防決壊の図面蛙子池は、土庄町肥土山にある小豆島最大のため池です。この資料は、天明元年(1781年)5月の洪水で、蛙子(かえるこ)池の堤防が30間(約55m)にわたって決壊したときの図面です。香川用水資料館では、この絵図の他、天明3年(1783年)の堤防復旧のための工事の出来高帳や、元禄14年(1701年)の底樋伏替と堤防補強工事の計画書などが、所蔵されております。

井関池の開発(四ヶ村大略図)

三豊郡大野原町の地図この資料は、京都太政官の命令で、明治初年(1868年)に作成された三豊郡大野原町(井関・有木・田野々・海老済の四ヶ村)の地図で、井関池も大きく描かれています。井関池は、大野原開発の中心となる池で、生駒藩の家臣西嶋八兵衛が柞田川を締め切り、大池を作ろうとしたことにはじまります。のち、京都の豪商平田与一左衛門とその仲間たちが志を受け継ぎ、開発を願い出て、途中幾度かの挫折の危機を乗り越え、惨憺たる苦心の末、ついに開拓に成功しました。井関池は、正保元年(1664年)に築造されています。

鹿之井出水の大正時代の水利紛争

水利紛争における回答書この資料は、高松市太田下町にある鹿之井出水に関する資料です。大正13年の干ばつに際し、下流側伏石村の水利関係者が単独で鹿之井出水の用水ざらえを強行、これに対し、上流側多肥村の水利関係者は、慣行を無視されたと怒り、実力行使で、堤防を削り、その土砂を鹿之井出水に投入したため、紛争がエスカレ-トしました。
この文書は、事件後多肥村長からの復旧の要求に対し、太田村長が要求を突っぱねた激しい回答書です。水不足の際には、通常の水利慣行が守られないと、争いになる場合もありました。

讃岐山田郡全図

この資料は、現代では、高松市東部にあたる地図で、山田という地名は、今も中学校の名前で残っています。慶応4年(1868年)に作製され、当時の大政所(大庄屋)が所持していたもので特にため池、水路などが詳細に記入されています。
水利を把握することは、地域の有力者として非常に重要な事項であって、地図を所持する必要があったものと推察されます。
讃岐山田群全図

木樋

木樋(もくひ)香川用水資料館には、「木樋」と呼ばれる木製の排水設備を展示しています。「木樋」とは、ため池の水を放出し、水田へ送るための木製の水門と管のことで、水門は、スッポン(ゆる)とも呼ばれています。
「筆木」と呼ばれる栓を抜きあげると、「スッポン穴」という穴から「底樋管」と呼ばれる管を通ってため池の水が流れ出ます。
現在は、木製のゆるは少なくなりましたが、田植え前に水を流し始める「ゆる抜き」という行事は現代にも残っています。

線香水

線香水の写真香川用水資料館には、「線香水」と呼ばれる木製の箱を展示しています。箱の中に線香を立てらせて、線香が燃え終わる時間までが、田んぼの配水の時間となります。
「拍子木」や「太鼓」は、配水の始まりや終わりを知らせる道具です。厳格な配水時間を決めることによって、公正な配分ができるのでした。
時計が一般的に用いられる時代になると、線香による時間管理は少なくなり、時計が主流となりました。

貫通石とカッターヘッド

貫通石とカッターヘッドの写真香川用水資料館には、「貫通石」と「カッターヘッド」を展示しています。「貫通石」とはトンネルを掘り貫通した際に採られた石のことを指します。資料館で保管されている貫通石は、導水トンネルの貫通地点(阿讃山脈直下)から掘り出された石です。岩質は和泉砂岩といい、砂が長い間かかって固まった石です。このような貫通石は、安産のお守りとして珍重がられています。
「カッターヘッド」は、トンネルを掘る際に使われた機械の先頭部分の石を砕くための器具のことです。導水トンネルの掘削には、当時最新鋭の機械が使われました。このカッターヘッドは、トンネルマシンの最先端中央部に取り付けられていました。
掘削した岩石の量は、およそ17万4000m³にもなりました。

たこつき胴石ときね

たこつき胴石ときねの写真香川用水資料館には、「たこつき胴石」と「きね」を展示しています。「たこつき胴石」は、機械が導入されるまで、池の堤を固めるために使われていました。石に紐を巻きつけ、数人で引っ張って、地面に落として土を締め固めます。石の形から「亀の子(甲)石」とも呼ばれています。
「きね」は、1人用のため池の堤を固める道具として使われたもので、同じく機械化が進むまで使用されていました。きねで地面を打つ作業は、「千本つき」とも言われ、池の水を使う農家が総出で行いました。

吉野川総合開発計画

吉野川総合開発計画書第2次世界大戦後、吉野川の開発が四国の経済発展の不可欠の要素であるとし、吉野川総合開発計画が検討されます。昭和25年に、最初の計画が発表された後、様々な立場から計画案が出され、資料館は、県の行政資料として、数多くの計画書を保管しています。
最終的に、吉野川総合開発基本計画が合意されたのは、昭和41年ですので、それまでの間、あらゆる分野から多くの調査研究が行われていたことになります。

国営土地改良事業 施行申請書

国営土地改良事業施行申請書昭和41年にようやく吉野川総合開発計画が決定され、香川用水事業も具体化します。
昭和43年8月に作成されたこの資料は、農業用水の専用区間の工事について、受益地となる各土地改良区の代表者が土地改良事業の申請を行ったものです。
農家にとっては、恩恵を受けるだけでなく、費用の負担も強いられますが、それでも、水不足を解消するための大切な一歩でした。

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