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公開日:2020年12月10日

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漆芸の歴史2

日本の漆芸

日本の漆の歴史は9000年前に遡り、既に縄文時代の遺跡から漆を塗った容器が出土しています。飛鳥時代に大陸から仏教とともに漆工芸技術が伝えられると、日本の漆芸技術は大きな発展を遂げました。奈良時代の正倉院には優れた漆工品が保存され、東大寺や興福寺には、麻布を漆で塗り固める乾漆(かんしつ)技法で制作された仏像が安置されました。
平安時代には、蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)の技法が日本人の好みに合うように改良され、貴族の調度品のほか、平等院鳳凰堂や中尊寺金色堂などの建物内部が漆で仕上げられました。
鎌倉時代から室町時代にかけて、武士の間に蒔絵や螺鈿で装飾された漆塗りの調度品が流行する一方、室町時代には中国から唐物とよばれる新しい漆器が輸入されてもてはやされました。

安土桃山時代に入ると、南蛮漆器と呼ばれる漆塗の調度品が西欧に紹介されました。また、茶の湯の儀礼が定められて作動が流行するなかで、茶人の間に漆塗りの茶器が愛用されました。江戸時代には、幕府や大名家に仕えた漆工家により、精巧で豪華な蒔絵の調度類が制作される一方、各藩の産業奨励によって漆器の産地が形成され、庶民の間にも生活漆器が普及していきました。このほか、長崎貿易を通じて、蒔絵や螺鈿の豪華な調度品が輸出されて西欧の王侯貴族に愛用されました。
明治時代に入り、ヨーロッパで日本の漆器が好評を博すると、政府の殖産興業政策による工芸品の輸出奨励策もあって、各地の特色ある漆器が産業として発展していきました。また、西欧の美術思潮の影響を受け、美術工芸としての漆器作品の制作も始まりました。

戦後になり、1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定され、芸術などの伝統工芸技術の保護や重要無形文化財の制度が規定されました。また、1974年(昭和49年)には「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が規定され、各地の特色ある漆器が伝統的工芸品に指定されて漆器産業の振興が図られています。

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香川漆芸の成立

香川の漆芸は、江戸時代に高松藩主松平氏の産業奨励策によって発展しました。
寛永19年(1642年)水戸徳川家から松平頼重(よりしげ)が讃岐高松の地に入封。
その後の歴史藩主は、数々の名工、名匠を育て、そのもとで文化芸術が花開き、文化的風土が培われました。
茶道、華道、俳諧等が育まれ、工芸も盛んになりました。保多織、桐下駄、円座、提灯、盆栽、張子、獅子頭などがあげられます。そして漆芸もそのうちの一つで、塗鞘や茶器などが職人によって作られていました。その漆芸が、香川県の代表的な伝統産業に発展できたのは、江戸末期に登場した玉楮象谷(たまかじぞうこく)という人物の功績によるものでした。江戸時代後半、日本の美術工芸文化は熟燗期を迎え、漆芸分野では、蒔絵が代表的な技法でした。

そのころ、讃岐・高松に生まれた玉楮象谷は京都に遊学し、東本願寺や大徳寺などが秘蔵する多くの漆芸作品に接しました。特に、室町時代に日本に伝来した中国の唐物漆器や中国南方(四川雲南地方)・東南アジア(タイ・ミャンマーなど)からの籃胎蒟醤(らんたいきんま)漆器は、彼の創作意欲を大きく刺激したようです。
その後多くの漆芸技術の知識を高松に持ち帰った彼は、松平頼恕(よりひろ)(第九代藩主)によって才能をみいだされ、お抱え職人として自立しました。藩の宝蔵品の管理・修理も任されるようになり、それらをつぶさに観察し、自分の技術として発展させました。特に唐物漆器や籃胎蒟醤漆器を中心にその研鑽が実を結び、従来の伝統的な技法を基礎に玉楮象谷独特の漆芸技法を確立しました。当時主流であった蒔絵にかわるものとして、中国・東南アジアの漆芸技術を消化して、日本独特の技法を開発したのです。

「籃胎」:竹籠を利用した漆器の素地。東南アジアなど雨期と乾期のある地域では、湿度の変化に耐えるものとして作られていました。竹は物差しに使われていたように、温湿差の変化による歪みが少ないものです。籃胎漆器は、日本でも縄文時代から作られていました。竹篭の網目を埋めるために漆を塗って、水が漏れないようにしました。

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蒔絵から新しい技法へ

江戸時代末期の蒔絵は金銀粉をもちいた絢爛豪華さが売り物で、平面的、平板なものに堕する傾向も一部で見られました。玉楮象谷は、主流の蒔絵に追随することなく、むしろ新しい技法で漆芸を極めようとしたのです。
玉楮象谷の生みだした技法は、蒔絵のように特別の流派もないため、かえって自由で、しかも新しい分野に新しい発想で取り組めたのです。現代であれば、玉楮象谷の漆芸にのぞむ姿勢は、新しい産業を興そうとしている起業家精神に似ているとも言えます。
玉楮象谷は、中国伝来の存清・彫漆技法、そして中国南方・東南アジア伝来と言われる藍胎蒟醤の技法に着目し、日本的な漆芸技法としてよみがえらせました。これらの技法は、今日では「蒟醤(きんま)、存清(ぞんせい)、彫漆(ちょうしつ)」として香川の地で発展し、「香川の三技法」と呼ばれています。玉楮象谷が「香川漆芸の祖」、「香川の漆聖」と称される理由はここにあります。

蒟醤:竹や木などでつくった器物の上に漆を十数回塗り重ね、蒟醤剣(きんまけん)で文様を彫ります。そして、彫り込みを入れた溝に色漆を埋め、表面を平らに研ぐことによって、思うような文様を表現する技法です。中国の南方(四川・雲南地方)からタイやミャンマーに伝わり、さらに、室町時代末期ごろ、日本に伝わりました。

存清:漆を塗り重ねた器物の表面に色漆で文様を描きます。そして、剣で輪郭や細部に線彫りを施し、彫り口に金粉や金箔を埋めて文様を引き立てます。これを鎗金細鉤描漆法(そうきんさいこうびょうしつほう)といいます。玉楮象谷は、この技法で存清の作品を制作しています。
存清には、もう一つの技法があります。漆を塗り重ねた器物の表面に彫刻刀で文様を彫り、その彫り口に色漆を引き立てます。これを鎗金細鉤填漆法(そうきんさいこうてんしつほう)といいます。
室町時代に中国から日本に伝わり「存星」とも書きますが、香川県では玉楮象谷が用いた「存清」の文字を用いています。

彫漆:各種の色漆を数十回から数百回塗り重ねて色漆の層(100回で厚さ約3mm)をつくり、その層を彫り下げることによって文様を浮き彫りにする技法です。彫りそのものによる立体感と彫りの深さによって生じる色の変化の対照が、独特の美しさを生み出します。
室町時代に中国から日本に伝わり、彫りの技術に優れている玉楮象谷は、独自の彫漆技法を考案して作品を制作しました。朱漆だけを塗り重ねたものを堆朱(ついしゅ)、黒漆だけを塗り重ねたものを堆黒(ついこく)といいます。現在では、顔料の発達により、さまざまな色漆が使われています。

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戦後の漆芸

第2次世界大戦後、昭和27年に文化財保護法が成立し、助成を講ずべき無形文化財として、香川の蒟醤・存清が選定され、その技術記録の制作者に蒟醤で磯井如眞(いそいじょしん)、存清で香川宗石(かがわそうせき)が選ばれました。

昭和30年には重要無形文化財認定制度が制定され、漆芸の分野では、香川でも重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝が誕生しました。昭和30年に彫漆で音丸耕堂(おとまるこうどう)、昭和31年に蒟醤で磯井如眞が認定されたのです。

その後、昭和60年に磯井正美(いそいまさみ)、平成6年に太田儔(おおたひとし)、平成25年に山下義人(やましたよしと)、令和2年に大谷早人(おおたにはやと)がそれぞれ蒟醤で認定されています。
また、日展の分野では、明石朴景(あかしぼっけい)(1911年~1992年)や大西忠夫(おおにしただお)(1918年~2007年)が、屏風やパネルなどの絵画的作品を制作し、室内装飾に新境地を開拓しています。一方、高松市を中心に箸や椀、盆などの身近な日用品から座卓、家具に至るまで、さまざまな種類の漆器がつくられ、香川漆器は全国有数の生産額を上げています。とくに、座卓は全国生産高の8割近くを占めており有名です。香川漆器は、国の伝統的工芸品の指定を受け、香川を代表する伝統産業になっています。こまやかな文化風土が生み出した玉楮象谷以来の香川の漆芸は多くの美術工芸作家の輩出や漆器産業の発展につながり、大河となって滔々(とうとう)と流れているのです。

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