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公開日:2020年12月10日

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発掘現場通信 沖南遺跡

香川県埋蔵文化財センター

発掘調査が終了しました

すっかり報告が遅くなってしまいましたが、7月末をもってなんとか沖南遺跡の調査を終えることができました。

梅雨の影響で丸1週間も現場作業ができない日が続くなど調査が月末までに終わらない心配もありましたが、作業員さんの頑張りもあって柱穴と溝を中心とした数多くの遺構を掘り上げ、中世土器を主体とした遺物もたくさん取り上げることができました。

最後の調査区も東半分には遺構面が2面あったため、調査にかかる作業がマシマシの状態。たくさんあった柱穴には、今までの調査区と同様に柱を抜いた後に石や土器を入れて埋め戻したものが多数見つかりました。瓦の破片も出土するのですが、柱穴の数に比べると少なく、再利用に持ち出されたものがあると考えても、建物全部が瓦葺きだったとは考えにくい状況です。

調査を終えることに精いっぱいで、建物の復元や遺物の総チェックまで手が及んでおらず、沖南遺跡の集落の性格などは整理作業を通じて明らかにしていきたいと思っています。
(8月17日)

調査風景

写真1 調査区1面の完掘状況

2面の完掘状況

写真2 調査区2面の完掘状況

柱穴内の土器

写真3 柱穴内の土器

柱穴内の土器断面

写真4 柱穴内の土器

たくさんの遺構・そして瓦、硯(すずり)

5月が終わり1班体制になりました。予想以上に遺構の数が多いため、発掘調査はやや遅れ気味で進んでいます。
北端部分の調査に続いて南端部分の調査も終了しました。今回は南端部分のお話です。

耕作土のすぐ下で建物の柱穴、土坑、溝を確認しました。柱穴の並びから推定できた建物は1棟で、その大部分は調査区の外側へ続いています。西側の道路沿いで確認した幅約2m、深さ約1.5mの大きな溝は、周囲の水田に水を配る中世前半頃の灌漑用水路であると考えられます。

溝の中からは日常雑器の土師器類に交じって、瓦片が出土しています。軒平瓦(写真1)は遺跡の北西約580メートルにある法勲寺跡で出土した瓦と同じ文様があり、何らかの関係があることが想像されます。硯は破片だけでなく、ほぼ完全な形のもの(写真2)も見つかっており、文字を使うことができた人々が周囲に住んでいた可能性がうかがわれます。
これからどんな遺構や遺物が出てくるのか、ワクワクしながら調査を進めています。
(6月5日)

瓦
写真1

硯
写真2

発掘調査が進行中です

準備の整った4月13日、現地での発掘調査を開始しました。4・5月は2班体制なので、調査地の南北の両端から掘り進めています(写真1・2)。

南端では数多くの遺構が見つかり、土器などもたくさん含まれています(写真3)。詳細は次回でお知らせいたします。
それに対し、北端は古代末頃より後は主に水田として土地を利用してきたようで、水平に堆積する土層が分厚く重なっており、水を流す溝が少し確認できただけでした(写真4)。

また、先日は近所の保育園の園児たちが遺跡の見学に来てくれました。調査員の説明はちょっと難しかったようですが、まだ土がついたままの土器に触れた際にはたくさんの質問をするなど、真剣に遺跡と向き合ってくれました。
将来、我々の後輩になってくれる人が出てくれれば、とてもありがたいですね。
(5月1日)

調査風景
写真1

調査風景2
写真2

遺構
写真3

溝
写真4

小さな見学者
写真5

沖南遺跡の発掘調査がはじまります

坂出市と徳島県つるぎ町を結ぶ国道438号(通称;貞光線)では、交通量の増加に伴って通勤の時間帯を中心に交通渋滞が頻繁に起きています。こうした状況の解消などを目的としてバイパス道路の建設が進められ、部分的に開通しています。

この道路建設に伴って、当センターでも岸の上(きしのうえ)遺跡、名(みょう)遺跡、沖(おき)遺跡などの発掘調査を行い、当地域の歴史を考える上で貴重な資料を掘り起こしてまいりました。

今回調査する沖南(おきみなみ)遺跡は沖遺跡の南側に位置し、丸亀平野が綾歌町の台地にぶつかる付近にあたります。昨年度、道路境界の構造物を先行して設置する都合上、一部分の発掘調査を行い、鎌倉時代などの溝を確認しています。また、事前の試掘調査でも複数の溝を検出しており、今年度の調査部分は主に中世以降の農耕地であった可能性が高いと思われます。

調査期間は4~7月の4か月で、事前の準備が整い次第、発掘作業に着手する予定で作業を進めています。
(4月2日)

沖南遺跡の位置
沖南遺跡の位置図 丸亀市都市計画図の一部に加筆

昨年度の調査風景
昨年度の沖南遺跡の調査風景

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