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昨年11月から発掘調査を行っている名遺跡ですが、4月からはこれまでより南の地点の調査を行っています。標高が低く谷状の地形になっている部分の調査となり、これまで見えてこなかった遺構がみつかりました。
写真で黄色の交差する太線、これが周囲より高く、囲まれた部分が低くなっています。これは現在同様、畦(あぜ)と田んぼの関係です。出土している遺物などから弥生時代(約2000年前)の水田と考えられます。それより後の時代のものも見つかっています。昔は現在のように広い水田に水をためることは難しく、小さな水田をいくつも隣り合わせて作り、高いところから水を張っていました。
日本で稲作がはじまった弥生時代から、各地に水田は作られますが、後の時代に壊されることが多く、発掘調査ではなかなか見つかりません。
名遺跡の水田は、洪水によって厚く砂が積もり、その砂によってパックされていたため、もとの形をよく残していました。水田で作業をしていたであろう当時の人の足あともみつかっています。
これから隣の部分の発掘調査を行いますが、新たな水田や、そこに水を引き入れた水路が見つかるかもしれません。(5月2日)
水田が見つかった!(黄色い部分は畦畔)
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