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公開日:2020年12月10日

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讃岐国府とは 1

香川県埋蔵文化財センター

国府とは

国府は、古代日本を構成する各国(香川県は讃岐国)ごとに置かれた役所のことで、現在でいえば県庁にあたります。

8世紀、日本はアジアの文明国の仲間入りを果たし、さまざまな制度が整えられます。この頃、都から派遣された国司は、6年(のち4年)の任期中、国府で仕事を行いました。また国司の下には、およそ400人もの役人が多くの役所の施設で働いていたとされます。国府とは、これらが集まった官庁街でした。そこは、讃岐の人々がそれまで見たことのない、新たなデザインの建物がならぶ空間でした。

平安時代にまとめられた『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』によると、讃岐国府は阿野(あや)郡に置かれたことがわかります。また江戸時代、国府が置かれた場所は、阿野郡府中村(現在の坂出市府中町)と考えられるようになりましたが、まだ正確な場所や内容は明らかになっていません。

鼓岡

国庁碑から望む鼓岡神社と城山

何のために調査するのか?

私たちが暮らしている、地域の大きな枠組みも古代に始まります。東と西で異なる讃岐人の気質や風習、ことば(さぬき弁)など、現在見られるさまざまな個性は、古代に讃岐国府を中心に進められた国づくりと無関係ではありません。それをもとにして長い年月をかけ、讃岐固有の風土や文化がつちかわれてきました。

国府の役人たちは、条里と呼ばれる碁盤の目のような地割を施工し、溜池(ためいけ)や河川の改修などの公共事業も積極的に行い、讃岐の国づくりを進める役割を果たしました。こうした役割は、時代によって少しずつ形を変えながら、鎌倉時代(14世紀初め)まで引き継がれていきます。
最近の研究では、国府の立地(どのような地形を選んでいるか)や建物の様子などには、国によってかなり違いがあることが分ってきました。

現在ではまだよく分らない讃岐国府の場所や構造、変化のありさまを明らかにすることは、讃岐国をつくり上げてきた先人の知恵や思いに触れることにつながります。それは、香川の今日を考え、将来を展望する上で意義をもつものと考えています。

発掘調査

発掘調査の様子(平成21年度)

何を明らかにするのか?

国司が仕事を行う中心的な施設が、国庁です。そこでまずは国庁がどこにあったか発掘調査で特定し、それがいつ成立したか、どんな建物や施設があったのか、さらにどのように変わっていき、いつ使われなくなったのか、などを明らかにしたいと思います。

また、国府周辺の地形や地名には、1,000年以上にわたる土地の記憶が刻みこまれています。細かな地形の変化を観察し、地名の由来を考えることで、土地と人々との関わりが見えてきます。

こうした調査を、これまで府中町・加茂町で進めてきました。今年度は、林田町の地形・地名の調査を行う予定です。こうした作業を通じて、国府と瀬戸内海をつなぐ水運の要としての綾川の当時の流れや、讃岐国内の神を集め祭った惣社(そうじゃ)の立地などについても考えます。それに加えて、江戸時代に崇徳上皇の居所とされた雲井御所(くもいごしょ)を考える材料となる伝承などを集めたいと思います。

なお調査は、讃岐国府跡探索事業ボランティア「ミステリーハンター」と専門職員との協働で進めていきます。そして調査成果が、地域や県民の歴史的資産になるように、調査報告会や現地説明会、企画展示など普及活動にも取り組んでいきます。

ミステリーハンター

ミステリーハンターによる現地調査(平成21年度)

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