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国庁が廃退する平安時代中期ごろ(約1,000年前)は、律令制が衰退する時期に当たります。
このころは、現地に赴任しない国司が増え、代わりに現地で実際に政務を行う中・下級貴族層の受領国司(ずりょうこくし)がその任にあてられました。
政務の中心地も国庁から受領国司の館へと引き継がれ、やがて、国庁は廃れたものと考えられています。
国庁模式図
最近の各地の国府跡の調査により、国府の中枢施設である国庁(政庁)の構造が少しずつわかってきました。
各地の国庁の特徴をまとめると以下の共通点があげられます。
例えば佐賀県の肥前(ひぜん)国府跡では、国府の外周を囲む、溝や塀などは見つかっていません。
個々の施設は、国庁(政庁)周辺に集中する傾向がありますが、都の縮小版ほどの計画性はありません。
これらの事例から、国府はもともと明確に定められた地区として成立したものではなく、国庁(政庁)を中核として、各種の施設やそれを支えた人たちの住居が広がる漠然とした範囲が、本来の国府の姿だと考えられるようになりました。
従来、国府は、現在の奈良県にあった平城京のような都の縮小版と考えられていました。
1辺5~8町(約545~872m)の方形区画の敷地を縦横に区分けし、その区画をもとに道と役所が計画的に配置された都市であったと想像されていました。
ところが昭和30年代以降、各地で国府跡の発掘調査が進むと、その構造は必ずしも都の縮小版のようなものではなく、国によってかなり差のあったことがわかってきました。
国府内の構造については、文献史料から丁(ちょう)、正倉(しょうそう)、兵庫(ひょうこ)、館(たち)、門(もん)、垣(かき)、雑屋(ぞうおく)などがあったことがわかっています。
丁は国司らが政務や儀式などをとりおこなったところで、政庁のことです。
正倉は農民から集めた稲などを収納した倉庫、兵庫は武器や兵糧を納めた倉庫、館は国司などが居住した宿舎のことです。
垣は役所のさまざまな施設を囲むもので、門がありました。
雑屋は日常的な実務をおこなう事務所、もしくは雑務に携わる施設と考えられています。
奈良時代から平安時代かけて(約1300~800年前)、国から地方に派遣された国司(こくし)らが政務や儀式などをおこなった政治の中心地は国府(こくふ)、その中枢施設は政庁(せいちょう)・国庁(こくちょう)などと呼ばれています。
つまり現在の都道府県庁のような施設にあたります。
また、政庁の周囲には、正倉(しょうそう)や館(たち)などがあり、これらと政庁を含めた施設群が国衙(こくが)と呼ばれています。
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