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公開日:2020年12月10日

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讃岐国府跡 調査現場から 33

香川県埋蔵文化財センター

ありがとう、ミステリーハンター

讃岐国府跡探索事業ボランティア調査員(通称ミステリーハンター)が9年間の活動を終え、解散しました。平成21年度から始まった讃岐国府跡探索事業では、讃岐国府の実態を明らかにするため、埋蔵文化財センター職員とミステリーハンターが一体となって地名の聞き取り調査、微地形の記録、水利慣行の調査、発掘調査などさまざまな調査を行いました。その成果は来年度刊行予定の発掘調査報告書に様々な形で反映されます。また、ミステリーハンターが主体となって行ったまち歩きガイドや南海道他各種冊子の編集・刊行など多くの貴重な財産が得られました。
3月17日(土曜日)に行われた最後の研修会では、埋蔵文化財センター所長から各ミステリーハンターに感謝状が贈られ、感謝の意が表されました。(3月19日)


最後のミステリーハンター研修会


所長からミステリーハンターに感謝状を贈りました。

県立ミュージアムの古代史担当の学芸員が研修中

香川県立ミュージアムの古代史担当の学芸員が発掘調査の研修に来ています。
讃岐の古代史のなかで重要な位置を占める讃岐国府跡の発掘調査を経験し、今後の研究や展示に活かしていくことを目的とした研修です。
とはいえ、発掘調査は未経験。土の堆積状況の確認(写真1)、平面での遺構ラインの確認(写真2)など博物館では経験することのない作業を行いつつ、測量(写真3)や排土運搬(写真4)も行いました。
研修序盤はキビキビとした動きに目を見張りましたが、後半には、「体のそこいらじゅうが痛い」と疲労の蓄積は避けられなかったようです。(1月18日)


写真1 土層堆積状況を確認


写真2 平面で遺構のラインを確認


写真3 遺構の輪郭を測量
デジタルデータとして記録

写真4 排土運び
研修中にも係らず、なぜかカメラ目線

段丘下の状態が判明してきました。

現在、調査を進めている開法寺東方地区は国府域で最も安定した微高地ですが、その南辺部には2mに及ぶ崖面があり(写真1・2)、南は一段低くなっています。低い部分は綾川河床より1mほど高い程度です(写真3)。崖面は綾川によって微高地が削り取られた痕跡ではないかという指摘もあります。今年度は低い部分に3箇所の調査区を設定し、その状況を確認しました。
今回は調査メモとして、現在検討中の成果を速報的に報告したいと思います。
<綾川の氾濫>
崖面際に砂質土が水平に堆積し、その上面は南に向けて傾斜します(写真2~4)。砂質土は拳大以下の円礫を多く含む層、極めの細かい細砂(シルト)と粗砂の互層、円礫を含まない細砂層などがあり、一様ではありません。綾川の大規模な氾濫によって堆積した土と考えられます。
<低地部分の造成>
砂質土の上面には数層の粘質土が厚く堆積しています(写真5)。粘質土は褐色系の色調の粘質土を主体としながらも、黄色や灰色系の色調の粘土も混じります。さらに、写真5の赤矢印部分の粘質土の上面は撹拌されたように、土が乱れています。こうした点から、砂質土上面に厚く堆積した粘質土は低地部分を埋め立てた造成土と考えられます。古代の土器や瓦が一定量出土し、かつ複数の土が混在することから(ベース土や遺構の土)、微高地の上面を削り取って、低い部分を埋め立てたようです。さらに、撹拌された土の存在は、牛馬による耕起の痕跡と考えられ、埋め立ての目的は綾川際の不安定な土地の耕地化であったと考えられます。粘質土からは古代の土器や瓦に混じって、14~15世紀頃の足釜が出土しており、耕地化の時期を反映します。
<再び、綾川の氾濫>
さらに、写真5の黄矢印の層は粘質土の上に堆積した砂質土です。この砂質土は最初に紹介した砂質土とは異なり、耕地化後に堆積したもので、14~15世紀以降も綾川が氾濫していたことが分かります。別の調査区の堆積状況から、氾濫は大規模なものであったようです(写真6)。
<現景観の形成>
現地表下60cmまでは水田層が連続して堆積しており、最深部の水田層からは江戸時代初め頃の陶器が出土しています(写真5の青矢印)。江戸時代以降、かさ上げをしながら耕作を続け、現景観が形成されていったようです。
<まとめ>
残念ながら、氾濫の時期は特定できませんが、先行研究を参考にすると、11世紀頃に綾川の大規模な氾濫があり、南に延びていた微高地の縁辺部が削り取られます。讃岐国府にとって一大事とも言える天変地異です。その後、南側の低い部分の土地利用は低調でしたが、14~15世紀頃に大規模な埋め立てがなされます。最末期の国府(留守所)が機能を停止した後、周辺の土地利用形態が一変し、耕地化が進行しますが、耕地化は微高地上に留まらず、低地部分にも及びました。その後も綾川は幾度かの氾濫を重ねますが、近世初頭には現景観の形成に繋がるような大規模な開発が行われます。南の低地部分では直接国府に関連する遺構は確認できませんでしたが、国府廃絶後から現在に至るまでの土地履歴が明らかになった点は大きな成果と言えます。(1月10日)

写真1 段丘下の調査区設定状況(南東より)
赤矢印:調査区、青矢印:崖面

写真2 35-4区と崖面(東より)
青矢印:崖面


写真3 35-4区と綾川の位置関係(北より)
黄矢印:現綾川の堤防

写真4 35-4区近景(北より)
手前は砂質土、奥の凹みには粘質土が堆積

写真5 35-4区の堆積状況拡大(北西より)
砂質土の上に数層の粘質土が堆積


写真6 35-5区の堆積状況拡大(南東より)
粘質土に後出する河川堆積土(砂とシルト)

新年、早々の調査から・・・

年末に降った雨が氷結し、調査区のなかはスケートリンク状態・・・。
転倒に気を付けながら調査区に入りましたが、調査員みずから横転という事態。
シートを開けるため氷を割り(写真2)、氷と水を取り除くことから始めた新年早々の調査でした。
氷の厚みは、なんと1cmを超えていました!!!(平成30年1月5日)

写真1 35-1区 調査状況

写真2 年末の雨で溜まった水が氷結


写真3 氷の厚みは1cm超え!

ようやく、全体像が見え始めました。

3か月ほど調査を進めてきた35-1区。
多量の瓦が出土したため(写真1・2)、遺構の検出に難航していましたが、ようやく全体像が見え始めました(写真3)。
調査区の西側に所在する開法寺との間に南北方向に延びる複数の溝があり、さらにその脇に東西幅5m、南北長18mもある巨大な瓦溜まりがあることが判明しました。瓦溜まりの瓦はこれまで開法寺跡で確認されている型式であり、開法寺跡との位置関係などを考えると、多量の瓦は開法寺跡から廃棄されたようです(写真4)。
現在、瓦を取り上げていますが、既にその出土量は20リットル入りコンテナで60箱を超えています。(12月7日)


写真1 35-1区 瓦検出状況(北より)


写真2 35-1区 瓦検出状況(南東より)

写真3 35-1区 瓦検出状況(南より)
:瓦溜まり、
:溝

写真4 35-1区と開法寺跡(北東より)
:瓦溜まり、楕円:開法寺跡

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