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公開日:2020年12月10日

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菅原道真の足跡

香川県埋蔵文化財センター 菅原道真の足跡

讃岐守となった菅原道真

平安時代を代表する学者・詩人であり、有能な政治家でもあった菅原道真(すがわらのみちざね)は、仁和(にんな)2年(886)から寛平(かんぴょう)2年(890)までの4年間、讃岐国司の長官である「讃岐守(さぬきのかみ)」として讃岐で時を過ごしています。
この間の道真の動向を追うことから讃岐国府に迫ってみることにします。
また、道真の生活舞台となった綾川下流域の、現在の風景を写真で紹介します。

菅公さんを祭る天満宮

讃岐守任官記録―1

菅原道真に関する史料は2種類あります。
一つは道真の作品である『菅家文草(かんけぶんそう)』、『菅家後集(かんけこうしゅう)』や同時代の歴史書である『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』、『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』などです。
もう一つは道真死後に作られた伝記類の史料です。
道真が讃岐国司の長官である「讃岐守」任官の記事はこの2種類の史料にあります。

綾坂橋架設記念道標

讃岐守任官記録―2

六国史(りっこくし)の一つである『日本三代実録』仁和二年正月十六日条に次のように記録されています。
「従四位下行阿波権守平朝臣正範為讃岐権守。従五位上行式部少輔兼文章博士加賀権守菅原朝臣道眞為守」
平正範(たいらのまさのり)が「権守(ごんのかみ)」、つまり定数外の名目上の長官に任命され、道真が正官(位階に相当する専任の官)に任命されたことがわかります。

国司庁碑

讃岐守任官記録―3

伝記類の史料では、『菅家伝(かんけでん)』に次のように記されています。
「仁和二年、出為讃岐守。在任有迹、吏人愛之。三年、進正五位下。寛平二年、罷秩帰洛。」
『菅家伝』は、鎌倉市の荏柄(えがら)天神社が所蔵する『北野天神御伝并御託宣(きたのてんじんぎょでんならびにごたくせん)等』の前半部分がこのように名付けられているものです。
天暦(てんりゃく)元年(947)以前に成立したとされ、伝記類の中では最も古く、史料的価値が高いと評価されています。

峻(さが)しい城山

国司とは

道真が任命された国司(こくし)とはどのようなものだったのでしょうか。
国司は中央より各国に赴任し、その国の庶政一般をつかさどる地方官です。
現在の都道府県知事のようなものですが、異なる点は、国司は複数いたということです。
古代の役所では、どこも役人を4等に分けていました。
国司も同様で、古代の法律(職員令(しきいんりょう))に詳細な規定があり、上国(これについては後述します)の国司については「守(かみ)一人、介(すけ)一人、掾(じょう)一人、目(さかん)一人」と定められています。
つまり、この守・介・掾・目の四等官を総称して国司と呼んだのです。

府中に咲くコスモス

国府の役人数

守とは長官のことで、役所のすべてを掌ります。
介は長官を補佐する次官です。
掾は国内の動向を調べ、書類の文案を審査し、非法の取調べを掌り、目は書類の文案を点検、修正し、公文書を読申する役目でした。
これらの四等官の下に、書記及び雑務を行う「史生(ししょう)」という役人も置かれていました。
この他にも医師、陰陽師(おんみょうし)、書生などの雑員がおり、最低でも640人あまりの人たちが国府で仕事をしていまた。

改修が進む綾川

国の等級

国司や雑員の人数は国の等級で決められ、その等級は大(たい)・上(じょう)・中(ちゅう)・下(げ)の4等に分けられていました。

各国の等級は律令の施行細則である『延喜式(えんぎしき)に』に列記されています。

讃岐国は上国(じょうこく)となっています。

ちなみに、讃岐国近隣での大国は播磨国(兵庫県)で、阿波国(徳島県)・伊予国(愛媛県)は上国、土佐国(高知県)は中国でした。

淡路島は古代は一つの国となっており下国でした。

菊塚

等級の基準

国を4等に区分する基準ははっきりしませんが、道真が讃岐国に赴任する7年前に讃岐国に関して次のような記事があります。

「課丁一万八千人、管内一万八千町、貢賦の数、諸国をこゆ。国司これによりて申請し、大国の例を求む。」(『日本日本三代実録』元慶三年二月条)

これからすると人口や耕地の広さが区分の目安とされていたようで、讃岐国は大国並だったことが分かります。

現代の開法寺

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